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朽木 稙綱(くつき たねつな、明応7年(1498年)? - 天文15年(1546年)?、天文18年(1549年)?、永禄5年(1562年)?)は戦国時代の武将。近江国朽木谷の国人。朽木材秀(別名:貞清、直親)の子、朽木晴綱の父。 朽木氏に関して活字史料としては『朽木文書』(以下「同文書」)に数多くの文書が残されており、稙綱も史料中に多く登場する。 生年は未詳で、同文書内での初見は永正2年(1505年)で「竹松」という幼名で登場し、室町幕府奉行人の飯尾元行、松田頼亮から奉書を受け取っている。このことから明応年間(1492年~1501年)の生まれであろうと推測できる。 没年についても定説はなく、同文書中で最後に登場するのは天文18年(1549年)であるが、西島太郎によれば〔西島太郎「戦国末期室町幕府女房所領に関する一史料」(『織豊期研究』第6号、2004年10月)。〕、永禄5年(1562年)の史料にも登場するということなので、その頃にも存命だった可能性がある〔孫の朽木元綱が1550年に2歳で家督相続をしていることから、このときにはすでに稙綱は死亡していたと考えるのが妥当であろう。〕。 ==生涯== 正確な元服年はわからないが、永正13年(1516年)には父・材秀(きひで)同様、室町幕府10代将軍(将軍復職後)・足利義稙(初名:義材、義尹)の偏諱を受けて稙広(たねひろ)と名乗っている〔足利義稙が「義尹」から「義稙」に改名した年月から推定すると、稙綱が元服したのは永正10年(1513年)から同13年までの間と考えられる〕。大永2年(1522年)から同4年の間に稙綱(たねつな)と改名〔この名乗りをきっかけにして、子孫でも「稙」の字を用いる者(福知山藩朽木家の初代当主~5代当主)がみられる。〕。官職は民部少輔。 永正初年(16世紀初め頃)には幕府奉公衆として御所御門役を務め、1525年の浅井攻めでは六角定頼軍に従い、その先鋒を務めている。将軍足利義晴・義輝父子が朽木谷へ逃亡した際の朽木氏惣領であり、12代将軍・義晴の時代(天文初期~中期、1530年代~1540年代)には、将軍の側近集団であった内談衆の1人として幕府の政治的な決定にも関与している。また、13代将軍・義輝の代には将軍の御供衆に任命された。 近江国の六角氏や京極氏と争い、あくまで独立を維持していたが、六角定頼が勢力を拡大してくると、その配下として服属せざるを得なくなったという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「朽木稙綱 (戦国武将)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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